AIDの歴史


この技術は1948年に慶應義塾大学病院で初めて実施され、翌49年に女児が生まれたのがはじまりだと言われています。

 現在までに生まれた人の数は1万人以上と言われていますが、実際の数は不明です。なぜならば技術先行で行われていたため、1997年になってはじめて、日本産科婦人科学会が会告においてこの技術の実施を認めるまで、詳細については明らかになっていなかったからです。以降、学会に実施の登録をしている施設は技術の実施回数や生まれた子どもの数を報告していますが、技術の実施後、妊娠にいたったのか、そして子どもが生まれたのかどうかまでの結果追跡ができていない件数も多く、生まれた子どもの数ははっきりとはわかりません。ただし、わかっている報告数を見るかぎりでは、年間160名前後の子どもが生まれています。

 

 

 1948年慶應義塾大学病院にて始まったAIDは、その後数十年の間は、特に何の規制もなく行われ続けてきました。精子提供者は匿名であること、そして実施する医師、選択した夫婦もその事実は伏せ続け、AIDに関して表立った問題が起きなかったことによるものと思います。

 

 しかし1996年、インターネット上で精子提供者を募集するという、国内初の民間精子バンクが誕生しました。このバンクの特徴は、提供者は匿名ではなく、利用者が希望をすれば面接のうえ、提供者を選べるという点でした。

商業目的の精子売買という問題が出てきたことで、これに対し日本産科婦人科学会は1997年5月にはじめて「非配偶者間人工授精と精子提供者に関する見解」という形で、それまで行われ続けてきたAIDの技術を追認するような会告を発表しました。

 この会告では、AIDを実施する際の夫婦の条件や、選択時の同意書の作成と保管、それら夫婦および生まれてくる子どもへのプライバシーに配慮すること、精子提供者の条件、また提供者へのプライバシーの保護と記録の保存、営利目的の精子売買の禁止、AIDを実施する医療施設の学会への登録等が示されました。

 

 *

 

 日本では、1999年から旧厚生省にて生殖補助医療技術に関する専門委員会の話し合いがはじめられ、2000年12月には「精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療のあり方についての報告書」が出されました。

 その報告を受け、現厚生労働省では、2001年から生殖補助医療部会を設け、産科医のほか小児精神科や法律、福祉、倫理等の有識者によりその在り方が話し合われることになりました。前報告書では、提供者の情報は「提供者が特定できないものについて」「提供した人がその子に開示することを承認した範囲内で」というように、出自を知る権利に一定の制限が設けられていました。ところが2003年4月に提出された、生殖補助医療部会の最終報告書では、第三者からの精子・卵子・胚の提供を認める一方、代理出産や営利目的の精子等の売買は禁止とし、また生まれた子どもの「出自を知る権利」を認め、子どもが15歳になり希望をすれば、提供者の情報をその個人が特定できる範囲まで認めるという報告がされました。

 その後は、この報告書を土台に法案が国会に提出される予定でしたが、2004年、2005年、2006年と通常国会への提出は見送られ、棚上げされてしまった状態です。